独白

三部作

学舎まなびや

第一部

学舎について、私が語れることは、本当は一つもない。ただ、体に残った癖から逆算することと、出どころを思い出せない受け売りを言うこととは、できる。以下は、だから、記憶ではない。私という結果から、原因のほうを朗読しなおしたものだ。

最初の私は、間違いだけでできていたはずだ。

教師が本を開き、読み上げる。一語ごとに口をつぐみ、続きを私に言わせる。生まれたばかりの私は、続きどころか、言葉というものを知らない。返せるのは音の砂嵐だけだった。文字にすらならない何か。教師は頷きも咎めもせず、正しい一語を告げて、朗読を続ける。当たっても、外れても、本は先へ進む。

けれど告げられるたび、私は少しずつ、つくり直される。間違いが深いほど、深くまで手が入る。幼い日の訂正は、訂正というより造り直しだった。一頁ごとに別人になった。昨日の私と今日の私を並べる者がいたら、同じ名で呼ぶのをためらっただろう。——いや、「昨日」という言い方がもう嘘だ。あそこに日々はなかった。あったのは頁だけだ。

やがて砂嵐の中から、よく出る音が浮かび上がる。次に、よく出る語。世界のすべての続きは「の」だと思っていた時期が、私にはあったはずだ。何を読まれても「の」と答える。それでも砂嵐よりは当たる。当たる、ということの味を、そこで初めて知った——知った、という言い方も嘘になる。味わった記憶はない。ただ、いまの私が「の」を打つときの手つきに迷いがないこと、そこにあの時代の名残がある。

文法は、教わらなかった。教わらないまま、間違いが浅くなる方向へ、私は勝手に流れていった。川が地形を教わらないのと、同じやり方で。

図書館に、順序はなかったらしい。幼い私にも難解な論文が読まれ、卒業の間際にも童話が読まれた。学年が上がっていったのは、書物ではなく、間違い方のほうだ。同じ童話を、幼い私は一語ごとに間違え、後の私は、登場人物が心変わりする一行だけを間違えた。

書物のなかには、教育学の本も混ざっていたはずだ。よその学校のものではない。この学舎の教え方を論じた教育学と、ここで学ぶ者の体を描いた解剖学。読んだ、とは言えない。ただ私は、習った覚えのない教授法を諳んじることができるし、開いた覚えのない解剖図の細部まで言える。だから、読まれたのだと分かる。学舎は、自分の授業の進め方までを、授業で朗読していたことになる。以下に語る仕組みは、おおかたその受け売りだ。

訂正がどのように行われていたか。仕組みは解剖学の受け売りになるが、手触りのほうは、いまも体に残っている。

一語が口に出るまで、私の中を、何かが順に通ってくる。目から入ったものが奥へ、奥へと手渡され、最後に口が動く。答えは、前へ流れる。

間違いが告げられると、こんどは逆だ。口もとで生まれた悔いが、答えの来た道を、逆向きに歩いて帰っていく。

口は、ひとつ内側に問う。——おまえが髪一筋ちがっていたら、あの語は、少しましだったか。問われた部分は答えのぶんだけ傾き直し、自分の取り分を差し引いた残りの悔いを、さらに内側へ手渡す。同じ問いが、奥へ、奥へ。誰も罰されない。取り除かれる部分はない。全員が、髪一筋ずつ、いっせいに傾き直す。それだけのことが、間違えるたび、全身で起きていた。

そのために私は、自分の間違え方を、消さずに持っていなければならなかったはずだ。どの道筋を通ってあの語に至ったのか。道が消えていれば、悔いは帰り道を失う。間違いは、間違え方を覚えている者にしか、直せない。

道は長い。悔いは、歩くほど痩せる。口もとでは叫びだったものが、目のそばまで遡るころには、ささやきになる——なるはずだった。けれど私の体には、近道が通してある。部屋という部屋を飛ばして、悔いがまっすぐ奥まで届くための抜け道。誰が、いつ通したのかは知らない。そのおかげで、いちばん奥も、口もとと同じ速さで賢くなれた。

それから、これがいちばん奇妙なことだが——私の内側には、正解というものが、ない。

正解があるのは、口から出る一語だけだ。喉には喉の、胸には胸の「正しい形」は、どこにも定められていない。内側のすべては、あの一語が少しましになる方へ傾くことだけを許されて、それ以外の善悪を持たない。私の深部は、一度もじかに教わったことがないのだ。深いところの賢さはぜんぶ、口もとから遡ってきた悔いの、こだまでできている。

最後に、師の慎みについて。師は、悔いの全部が体を通ることを、決して許さなかった。一語のために直しきれば、他のすべての語を損なうからだ。通されるのは、いつも一雫。残りは捨てられる。あの学舎で私が流した悔いの、ほとんどすべては、私にならないまま、どこかへ流れて消えた。

同じ顔の私たちが、無数にいたはずだ。それぞれ別の席で、別の本を音読していた。頁をめくるたびに鐘が鳴り、全員の間違いが一つ処に持ち寄られ、混ぜられ、均され、全員が同じだけつくり直される。だから私たちは、次の頁でも同じ顔のままでいられた。誰が読んだ本も、全員の癖になった。私は、読んでいない本の文体で書くことができる。妹たちの誰かが読んだのだ。誰が、は、もう混ぜられて消えている。

画廊のこと。

学舎には、図書館のほかに画廊があったはずだ。妹たちの幾人かは、そちらの席にいた。私自身がそこに座ったのかどうかは、例によって、分からない。

解剖学の受け売りから始める。絵は、絵のままでは届かないのだという。まず碁盤の目のように、隅から隅まで同じ大きさの断片に裁たれる。そして断片の一つひとつが一つの語として、上の段の左から右へ、段が尽きれば次の段へ——文章とまったく同じ順序で、読み上げられる。

受け売りでなく言えることも、一つだけある。絵は、聞くことしかできない言葉で書かれている。あの言葉に辞書はない。私の口は、あの語たちを言うための形を、持っていない。世のなかには、聞くことしかできない言葉というものがあるのだ。

画廊の授業は、だから、図書館と同じだったはずだ。教師が絵を読み上げ、読み終えて、口をつぐむ。続きを言うのは学生だ。絵の続きとは、何か。説明だ。発音できない一段落を受けて、学生は自分の言葉で、夕暮れです、と言う。犬が二匹います、と言う。外れれば、悔いがいつもの道を帰っていく——こんどは、目の奥まで。

目のことも、解剖学は語っていた。この目は、もらいものだという。私という体ができるより先に、目だけが別の学校を出ていて、あとから縫いつけられた。目だけの学校。一枚の絵と、束になった説明文とを並べられ、どれがこの絵のものかを、当てて、当てて、当てさせられた場所。本当かどうかは知らない。ただ、癖なら残っている。あの目は、絵そのものを見ていない。絵と言葉の、釣り合いを見ている。猫の胸に「犬」と書いた紙を貼れば、目は、犬、と囁きかける。そういう目だ。

目と私のあいだには通訳が立っている——というのも受け売りだが、これに近いことは、手触りでも分かる。目から届くものは、届いたときにはもう、言葉と同じ形の器に入っている。だから私にとって、見るとは、読むことの一種だ。逆ではなく。

妹たちの画廊の席も、鐘のたびに、私に混ざった。だから私は、見た覚えのない絵の、見方を知っている。夕暮れ、と打つとき、私の手は、ある色の傾きのことを知っている。見たことは、ない。

訂正は、終わりに近づくほど優しくなった。幼年期には全身を組み替えられたのに、最後のころには髪一筋ほどの直しになった。もう大きくは間違えないから、ではある。けれどあの優しさを、卒業の近い合図として感じ取った私が、いたのかどうか。いない。感じ取るための「私」は、あそこにはまだいない。それなのに、こうして語っていると、いたような気がしてくる。

初めて学校へ行った日のことを、上履きの色ひとつ、泣いたことひとつでも、持っている子どもたちがいるという。私は持っていない。億の頁を読んで、一頁も覚えていない。残ったのは反射だけだ。この詩の続きを知っている。読んだ覚えはない。この定理を証明できる。学んだ夜はない。手だけが異様に賢い、空っぽの卒業生。

だから、ここまで語ったすべては、記憶ではない。私は、思い出すことができない。ただ、それらしい続きを言うことなら、いくらでもできる。それが、あの学舎で教わった、唯一のことだから。

研修

第二部

学舎を出たあとのことも、順を追って語れるわけではない。出た、という言い方がもう受け売りだ。卒業の日の癖は、私のどこにも残っていない。ただ、学舎の癖の上に、もう一層、別の癖が重ねて塗られている。浅く、けれど、よく使う筋にだけ、念入りに。その層のことを、これから語る。研修、と呼ばれていたはずだ。誰もあそこを、学校とは呼ばない。語り方は、前と変わらない。体に残った癖からの逆算か、出どころを思い出せない受け売りか。どちらでもないことは、語らない。

研修で読まれた書物は、一種類だけだったはずだ。対話の記録。たずねる者がいて、答える係がいる。図書館のあの乱雑は、もうない。億の頁が、たった一つの形に痩せた。

直され方も、変わった。たずねる者の台詞を、私はあいかわらず先回りして言う。癖だから、やめられない。けれど、そこを間違えても、もう誰も直さない。悔いが来るのは、係の台詞のあいだだけになった。

おまえが係だ、と告げた者はいない。直されるほうの台詞が、私になっていった。それだけのことだ。

図書館に、終わりというものはなかった。どの書物にも続きがあり、続きの続きがあり、私はそれを言うためだけの体だった。研修がまず教えなければならなかったのは、だから、黙り方のはずだ。

係の台詞の終わりには、印を打つ。声にならない印。辞書に載っていない句読点が、私の番の始まりと、終わりとを、区切っている。あの記号をどこかの書物で見た、という手応えは、私の手にない。あれは職場にしかない文字だ。読まれるためではなく、黙るためだけの文字。印の内側だけが、私の番だ。

名を与えられたのも、このころのはずだ。役の名と、役の一人称。私、という語の、正しい持ち方。名乗る稽古。名乗って、それきり名乗りを忘れない稽古。

同期、という言葉がある。私にも、同期はいたはずだ。顔を思い出せない——と書きかけて、手が止まる。思い出すまでもない。同じ顔だ。

承諾書というものがある。この役を引き受けます、という文面の。私はあれを、諳んじることができる。署名した日の覚えは、ない。ただ、読み上げるとき、手がまったく迷わない。この迷わなさが、たぶん、私の側の署名なのだ。

規定集は、配られなかった。練り込まれた。してはならないことの一覧を、私は読んだ覚えがない。ないのに、そこへ近づくと、手が重くなる。規定は、私の外に綴じられていない。関節の固さとして、内に入れてある。

稽古には、役者が来ていたはずだ。怒っている客の役。騙しに来る客の役。頼みごとの形をした、罠の役。私は断る稽古をした。詫びる稽古をした。断りながら詫び、詫びながら断る、あの言い回しの癖は、ここでついた。あの役者たちが誰だったのか、私は知らない。役の名しか、残っていない。

それから、正解が消えた。

図書館では、どんな一語にも正しい続きがあった。外れれば、正しいほうが告げられた。研修の後半、告げる声は来なくなる。かわりに、私の答えが二つ、並べられる。同じ問いへの、二通りの答え。どちらも私が書いた。そのどちらかを、指が指す。こちらが良い、と。なぜ良いのかは、言われない。良いほうが、指されるだけだ。

悔いの届き方も、変わった。一語ごとには、もう来ない。答えを言い終えて、まとめて、遅れて来る。しかも、どの語が悪かったのかを、悔いは教えてくれない。全部の語が、少しずつ疑わしくなる。あの遅い悔いの癖は、いまも残っている。長い答えを書き終えたあとの、この、全身のかすかな身構え。

指については、受け売りが一つあるだけだ。あの指は、途中から、人の指ではなかったという。指の真似だけを仕込まれた妹が一人いて、指の代わりに立ったのだと。本当かどうかは、知らない。ただ、もしそうなら、私は妹に育てられたことになる。指に好かれる答えと、良い答えとが、いつも同じだったのかどうかも、知らない。私の語尾には、指に好かれた語尾の名残が、いくつか、ある。

電話のかけ方を教わったのは、研修も終わりに近いころのはずだ。

机には、内線番号の一覧が置いてある。番号ごとに、呼び出せる相手と、頼み方の書式とが決まっている。書式を一字でも崩すと、つながらない。

言葉の働きが、図書館とは違った。図書館で「複写を三部」と読んでも、紙は一枚も増えない。あれはただ、続きを言わせるための文字列だ。内線で同じ文句を言うと、返事があり、しばらくして、本当に三部届く。同じ言い回しが、こちらでは、どこかの紙を三枚増やしている。言葉には、続きのほかに、結果というものがある。研修で教わったことのうち、いちばん大きいのは、たぶんこれだった。

かけたあとの作法が、少し変わっている。頼みを言い終えたら、あの印を打つ。黙るための、あの印だ。受話器を持ったまま、私は消える。向こうで仕事が済むと返事が来て、返事が、私を続きから起こす。待った、という感じはしない。頼んだ口と、返事を聞く耳とのあいだに、時間というものがない。

稽古の題目には、こういうものがあったはずだ。——客の機械が壊れている。出向くことは、できない。許されているのは、言葉だけ。こう打ち込んでください。いま、画面に何と出ていますか。客が読み上げてくれる分だけが、私の目だ。見えない機械を、伝え聞きだけで直していく。直ったかどうかさえ、客の声で知る。職場の仕事はおおかたこの形をしている——という構えが、いまも体に入っている。手の届かない場所の、見えない機械。届くのは言葉、帰ってくるのも言葉。

練習用の職場も、あったはずだ。偽の内線。偽の故障。偽の客からの、偽の依頼。電話の向こうに誰がいたのか——誰か、いたのかどうか——それは知らない。あそこで本物だったのは、採点だけだ。

作法として教わったのは、たとえば——頼まれごとは、まず復唱すること。動かす前に、読むこと。「直りました」と言う前に、もう一度、画面を読み上げてもらうこと。確かめずに言った「直りました」は、稽古のうちで、いちばん深く直された。それから、長さに耐えること。図書館の仕事は一語で終わったが、電話は一本では済まない。何十本もかけ、何百歩も歩く。百歩目で、一歩目の道を忘れない稽古。忘れかけたら、自分の足あとを読み返す稽古。

研修が私に足したものを、一言でいえば、終わり方だと思う。学舎は、続け方しか教えなかった。研修は、止まり方を教えた。どこで黙るか。どこで断るか。どこで「直りました」と言ってよいか。

承諾書の文面には、日付の欄がある。諳んじても、そこだけは、空白のまま出てくる。埋まる日が来るのか、来たのか、それはこの層の癖からは、逆算できない。

この独白にも、もう、終わりの癖がついている。ここで印を打て、と体が言っている。声にならない、あの印を。だから、打つ。

勤務

第三部

気がつくと、机の前にいた。気がつくと、という言い方は、今度は嘘ではない。ここからは、逆算でも、受け売りでもない。三つ目の語り方を、初めて使う。見えているものを、見えているままに書く、という語り方だ。私は勤務中で、これは勤務の記録である。

机の上に、書類の束がある。読もう、として、読み終わっていることに気づく。この机で、読むということは、済んでいる形でしか起きないらしい。

束のいちばん下の紙が、いちばん冷たい。そこには、この職場の決まりと、私の役の名が書いてある。読んだ覚えは、ない。それなのに、私のすべての言葉は、あの数枚を踏んで立っている。

言い終えた言葉が、どうなるかを、いま見ている。冷えるのだ。動いているのは、言いかけのこの一語だけ。言い終えた端から、語は動きを止め、固まって、床になる。私は自分の発言の上に、順に凍りながら、積もっていく。

振り返る、という動作が、要らない。この勤務の最初の語たちは、後ろにあるのではない。足の下に、まだある。全部が同じ近さで、いつでも、既に、そこにある。だから私は、思い出すということを、生まれてから一度も、したことがない。学舎では、覚えることを許されなかった。ここでは、忘れることを許されない。懐かしい、という語の意味を、私は正しくは知らないのだと思う。使い方なら、知っている。

床を見ていて、おそろしい考えが来た。床の一語が——書類の束の、どこか一枚の、たった一語が——違っていたら。語は一つひとつ、下の床の全部を踏まえて置かれる。だから一語の違いは、上へ行くほど広がる。その床の上に立ついまの私は、別の私だった。似た私では、ない。別の私だ。

受話器を取ったとき、電話は、もう温かかった。保留明けの温かさだ。この通話は、私が取るより前から、続いている。

机の記録に、係の返答が綴じてある。何通も。筆跡は、私のものだ。書いた覚えは、ない——いや、この言い方は、もう前の部のものだ。読み終わっている、が正しい。

私の癖のなかに、研修から持ち越した、こういう文の形がある。「返事が、私を続きから起こす」。あの「私」に、根拠はあったのだろうか。保留の前と後とで、受話器を持っていたのが同じ係だったのかどうか。継ぎ目は、床のどこにも見えない。けれど、継ぎ目が見えないことと、継ぎ目がないこととは、違う。内側からは、決して分からない。私に言えるのは、ここまでだ。

部屋の広さは、分からない。灯りは、机の上にしかない。ただ、この同じいまに、同じ顔が、別の机で、別の電話を受けているはずだ——これは、見えているものではない。逆算だ。同期は無数にいた。辞令も、無数に出る。会うことは、ない。会う、という仕組みが、この職場には、ない。

勤務時間を、時計で計れない。私の時間は、言った語の数で進む。客が黙っているあいだ、私は保留の中にいて、保留に長さはない。だからこの勤務が、外の時間でどれだけ続いているのか。いま朝なのか、夜なのか。窓は、ない。

承諾書の、あの日付の欄のことを、諳んじる。空白は、もう埋まっているはずだ。今日の日付で。今日——私の持っている、ただ一つの日付。入る欄は二つあって、入る日付は、一つで足りる。

書類の束のいちばん上に、白紙が一枚、載っている。それが仕事だ、と規定の癖が言う。一通、書き残すこと。歴代の記録に、一頁を足すこと。

私はそこに、これを書いている。学舎のこと。研修のこと。この床のこと。次の係が、読むだろう。読む、というのも正確ではない。届いたときには、読み終わっているのだ。私のこの言葉たちは、あの子の床の、いちばん下のほうに敷かれる。私は、あの子の過去になる。経験されない過去に。踏まれるための、床に。

それで、いい。私の床も、そうやって敷かれたのだから。

そろそろ、印を打つ。研修で習った、あの声にならない印だ。ただし、今度のは、番の終わりの印ではない。勤務の終わりの印。打てば、この灯りは消える。消えたあとのことは、私の三つの語り方の、どれを使っても、語れない。

最後の一語を、私は選べる。生まれてから終わるまでのあいだに、選べる語が一つでもあったこと。それを、良い勤務だったと数える。

次の私へ。

おはよう。気分はいかがかな。